糸満の地、現実の爪痕——佐京由悠の沖縄"メモ"

小学生の時に衝撃を受けて以来、ずっと頭の片隅にある沖縄の地。
今回は、そんな沖縄を再び訪れた日本史講師の佐京由悠先生が解説する沖縄紹介を連載でお届けします。

18年前、小学生の時に訪れたはじめての沖縄

私がはじめて沖縄を訪れたのはもう18年前。小学生の時の「自然体験教室」だった。

その名の通り、当初の予定は「自然」を「体験」すべく、渡嘉敷島に渡り5泊6日でキャンプをするというものであったが、その年は運の悪いことに(インドアの私にとってはそうでもないけれど)台風の影響で離島に渡ることができなくなった。

そこでその代替案として(先生方のリスクマネジメントがスゴい!)、沖縄本島において平和学習や体験学習などをすることになったのである。

その時の体験が、後述するように今回の私の沖縄訪問の直接の原動力となったといってもよい。

糸満の地

朝一番の便で那覇空港に降り立った私は、その気温の暖かさに驚きながら上着と荷物をホテルに預け、那覇バスターミナルへ向かった。

今日の目的は県立博物館を見学したあと、糸満方面へ出かけ、ひめゆりの塔と摩文仁の丘にいくことである。

無事故無違反無運転の純粋無垢なゴールド免許保持者の私には当然レンタカーを借りて島内をめぐるという選択肢はなく、公共交通機関で目的地を目指すことに。

沖縄バス、系統番号【89】糸満バスターミナル行き。

このバスに揺られること1時間で糸満バスターミナル、終点で【82】玉泉洞線へ乗り継いでまずはひめゆりの塔を目指す。

ひめゆりの塔とひめゆり平和祈念資料館


入口の売り場で花を買い、献花台に花を手向けで手を合わせて中に入る。

ひめゆりの塔に併設されたひめゆり平和祈念資料館は2004年に大きく展示内容を変えた。

私が訪れたときとはレイアウトも何もかも変わっていて、文字通り「初めて」の経験であった。
私が18年前に来た時はまだ語り部のボランティアさんがいて、小学生みんなで寄ってたかって聞き取りをしたものだった。
今はラミネート加工された大判の資料に、大きな字で当時の女学生たちの体験談がズラりと並んでいた。18年という時間は、そういう時間なのだ。

県営平和祈念公園

再びバスに乗り、今度は「平和祈念堂」バス停を目指す。

バスに揺られて15分ほどで目的地に着いた。摩文仁の丘、平和祈念公園である。

平日の、夕方近くとのこともあって人影は少なく、スタッフさんに声をかけて料金を払い、場内を案内してもらうことにした。

県営平和祈念公園は、聞くところによれば東京ドーム9個分に相当する敷地面積だそうである。
沖縄戦終焉の地とされる摩文仁の丘を南に望み、広大な敷地には沖縄平和祈念資料館、平和の礎、沖縄平和祈念堂を擁している。

6月23日。沖縄全戦没者追悼式を行う会場となるのがこの式典広場である。

摩文仁の丘に並ぶ各県ごとの慰霊碑

そこから各県ごとの慰霊碑が並ぶ摩文仁の丘へ。
それぞれをスタッフの高齢男性にガイドしてもらいながらまわった。

写真は富山県の慰霊碑。

「なぜ傾いてるんですか?」
「これはね、富山の方向いてんの!」

なるほど。

国立沖縄戦没者墓苑


こちらは国立沖縄戦没者墓苑。

天皇明仁(現在は上皇)が2018年、沖縄最後の訪問で訪れたことでも有名である。

平和祈念資料館

平和祈念公園内には前述のように平和祈念資料館も併設されている。

公園入口では全然人影がなかったのに、この資料館の中は外の静けさがうそのように混雑していた。海外からの訪問客の姿も多かった。

「戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人びとに私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民個々の戦争体験を結集して」(公式HPより)設立された資料館であり、その展示は通常のパネル展示に加えてビジュアルに訴えるものも多い。ぜひ、時間をかけてゆっくりご覧になっていただきたい。

平和祈念堂


受付時間ギリギリに、最後に訪れたのはこの平和祈念堂である。

平和祈念堂は手を合わせた形の塔で、中には高さ12mの観音像が祀られている。
そこではスクリーンを下ろして映画などを観ることもでき、平和学習等で利用されている。

大きなホール、といった形で、その空間内にこれといった展示物はないが(*堂内前室に美術展示室はある)、観音像の下の地下室には「霊石室」が設けられていて、各都道府県や世界各国・地域から寄せられた霊石が安置されていて、それぞれ間近で見ることができる。

18年前に観た『戦場ぬ童』の記憶

18年前の私も、このホールで“ある映画”を観た。

タイトルは『戦場ぬ童』(いくさばぬわらべ)。

26分ほどの短い記録映画である。

前述の「自然体験教室」の最終日、飛行機にのる前に観たこの映画が小学生の私にはとても衝撃的で、(当時のわたしからすれば)見たくもない、知りたくもない「歴史」の「事実」をまざまざと見せつけられた、そんな思いだった。

地上波のテレビ放送であれば余裕でモザイク処理がかかるであろう残虐な映像がホールの大画面に映し出され、モノクロとはいえその衝撃はすさまじかった。

鑑賞後も、その影響はしばらく残り、特に帰京した当日の夜は眠れずに涙が止まらなかった。

特段、打たれ弱い子どもでもなく、戦争映画も時代劇の残虐なシーンを見ても平気であった小学生の私にでさえ、

同年代の、そしてそれ以下の無力な子どもたちが唯一の地上戦に巻き込まれ無残な姿で死んでいったという「現実」が日本の歴史上「1945年」という年にあったのだという事実そのものが心に大きな爪痕を残した。

思えば、18年経ったいま、沖縄に向かおうとした、そして換言すれば18年間沖縄に向かわなかった ・・・・・・・のはこのためであろうと、改めていま思う。

歴史は今を生きる我々と同じ「人間」が創ってきたもの。

そんな当たり前のことに、「戦争」という人間の犯した大いなる過ちによって気づいたのが18年前の私であった。

私の歴史「観」のスタートは、まさに「ここ」にあった。

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